【VR】ピースパークツアーVR体験記
広島の平和記念公園で、原爆 の悲しみを感じる新しい試み
たまたま私用で郷里、広島に戻っている時、平和記念公園に新しいツアー、しかもVRを使用したツアーが行われていることを知った。名前は「ピースパークツアーVR」。ネットで確認すると、日に一回行っているという。朝10時半スタートで、80分掛けて800mのツアーだという。3500円かかるという。原爆資料館の焼き直しだったら、あまり価値がないなぁと思いながら、予約してみた。
■原爆の新しい体験「この世界の片隅に」
このVRツアーをレポートする前に、アニメ映画の話をしたい。「この世界の片隅に」だ。
原作は、こうの史代さん。2007年から2009年にかけて、漫画アクションに連載された。2011年と2018年にテレビドラマ化されたが、この作品が有名なのは、2016年に封切られた、片渕須直監督による同名の劇場アニメによるところが多いだろう。
高名な中沢啓治さんの「はだしのゲン」と違うのは、主人公が浦野すずという女性であること、そして原爆投下時、彼女は嫁ぎ先の呉にいて、直接的な原爆被害の描写が少ないこと。逆に、それを生活を切り盛りする女性目線から捉えており、ある種の客観視線があるところ。昭和の生々しい戦争、原爆の怖さではなく、後々までじんわりした怖さと怒りが残る作品になっている。
今時のよくできたアニメに、ありがちなのが「聖地巡礼」。そのアニメに出てきた特徴的なシーンの痕跡を探そうという、一種の遊びだ。現実世界とアニメ世界を場所で結びつけ、その作品の中により深く入り込めるわけだ。
実はVRツアーでの、スタート地点が、平和記念公園レストハウスと聞いたとき、その聖地巡礼を思い出した。というのは、「この世界の片隅に」の冒頭、幼いすずは、風邪をひいた兄に代わり、家で作った海苔をもって、中島本町の「ふたば」に届けに行くのだが、海沿いの町、江波から知り合いのおじさんの船に乗せてもらい、中島に到着する。中島とは今の平和公園のがあるエリアの昔の地名。昔は川沿いに料亭が4つ、立ち並んでいたという。すずが降りたところは橋の袂。雁木(川に降りることができる階段。7つの川で形成される広島にが今でも数多く残っている)を上がると大通りがある。
そこに大きな建物、「大正呉服店」があった。この大正呉服店だが、当時3階建てのビルだった。すごく羽振りがよかったことがわかる。戦時中は摂取され燃料配給の事務棟「燃料会館」として使われた。爆心地に近いが、爆心地方向に二階建てのビルがあり、そのビルが壊れながらも爆風を防ぐ役割をして、建物は残ることになる。それが、今の平和記念公園レストハウス。「被爆建物」だ。傷みがひどくなり、改装した時、昔の大通りに面したところは、ショーウィンドウ似などを設けるなどして、戦前の瀟洒な感じを出している。
これは世界各国共通であるが、よいツアーは、シナリオがしっかりしていなければならない。「この世界の片隅に」を使うのかとも思ったが、主人公のすずは原爆投下当時、呉にいたわけで、作品にも被爆直後の様子は描写されていない。
中に入ると、1Fは売店、2Fはコーヒーショップが隣接した休憩所になっている。12月でもあり、人はまばらだった。
時間になり、集合場所に行ってみると、本日は私を含めて2人だという。2人でガイドを貸し切るわけだから、これはちょっと贅沢でもある。3Fの控室で、VRゴーグルとケーブル付きイヤホンを受け取る。その2つを首からさげ、ツアーは始まった。
■地下室へ
まずは、建物の周りを左に回る。戦前を再現したショーウィンドウから周り、河岸に行くと、そこには、当建物の解説板があった。被爆直後の写真付きである。見事に一棟だけ建物が残っている。これは前に建物があったことに加え、前に建物があったため、普通なら川に向けて設ける窓を設けなかったため、爆風が建物内に飛び込んでこなかったためであるという。何が幸いするのか、わからない。
一通り、外観を見ると、また建物内へ。今度は地下室へ。そこは、野村英三さん、当日建物内にいた38人のうち、原爆が爆発した瞬間、たまたま、地下室へいて一人死亡を免れた人。その人の手記により、被爆後のVRが作られたという。我々は、この人の記憶を体験するわけである。
しかし、元々あったという柱はひどかった。一本で貫通しているのがないのだ。また、補間も鉄、柱に使えるほどの材料が使われていない。建物が地下に落ち込まなかったのが不思議なくらいだ。
■その1 橋の上のVR
レストハウスの外にでた我々は、建物の北を走る当時の大通りを横切り、川沿いの道に折れた。通りは、元安川にぶつかるが、橋がかかっている。橋の名は元安橋。今は狭くてもさすがは元大通り。一番いい名前を継承している。
川沿いの道に入った我々は、一番最初のベンチに腰を掛け、機材をセットする、ここが第一番目のVRスポットだ。ここで機材を装着する。スムーズにことが運べばいいのだが、VR機材は、まだ発展途上中。途中で何が起こっても可笑しくない。しかもこのVRゴーグル。太陽光線をシャットアウトするために、かなり幅狭に作ってある。私は、小5の時からメガネを掛けているが、視野を広めに取れるよう、幅広、フレームレスのアイメトリックスを愛用している。このため、ゴーグルに入らなかった。
今の家具は、下にロボット掃除機「ルンバ」が入れるように設計するという。それができたのは、ルンバの出来が良くロボット掃除機はなくならないことと、そしてシェアが年々伸びているためだと聞く。しかし、そこまでの強さがあるVRゴーグルは、この世に存在しない。もしそれが極まれは、個人的にVR用のメガネをつくるのもやぶさかでうぁないのだが、いまの段階では、まだ、やりたくはない。どれが標準になるのかがわからないからだ。ここは、政策的にも最も愚劣なところ。日本標準を決めた方が、世界にも通りがいい。後手に回っており、政府には、「日本はこうする」と宣言して欲しいところだ。
それはさておき、VRは原爆が投下されてから、爆発するまでの橋の上を描写する。ガイドの田原さんの説明によると、空襲は絨毯爆撃が基本。一機だけ来たB-29を当時の人は、もの珍しげに思ったらしい。とは言うものの、B-29が来たのは矢賀まで。爆心地から5km東。後、リトルボーイ(広島に落とされた原爆のニックネーム)は自由落下の放物線を描き落ちることになる。
B-29が単独でくるのは、当時あり得ないことであり、広島市民の多くは防空壕に隠れずに、空を見上げたと言う。田原さんのお母さんは、現在もご存命だが、腕にケロイド(原爆での火傷の状況。いろいろなところが、盛り上がる火傷後。被爆の象徴でもあり、あとどの位、生きられるのかわからない烙印でもあった。核を具現化した怪獣、ゴジラの皮膚は、ケロイドを象徴しているという。)があるという。
それでなくても高射砲対策で、高高度の位置のB-29は見上げることになる。おしりも、8月、お天道様はまばゆい。片手で目の上に日陰を作り見る。そうなのだ、顔がそんなに火傷せず、腕が火傷し、皮膚が垂れ下がったのは、これが原因なのだ。また田原さんは、なぜ母の顔が焼け爛れず、腕に火傷を負ったのか得心したと言う。
VRは、一機現れたB-29を空爆とも思わず、橋の上で、仰ぎ見る市民の様子を映し出す。ありきたりのシーンと言えば、その通りだが、凄惨なシーンとも言える。ある種の騙し討ちでもある。小学校から、市内遠足は、原爆ドーム、原爆資料館を見て、十分トラウマ経験を積んでいる私ですら、新たに肌が泡立つ。
ちなみに、ある意味、最もデーターがとれる臨床実験をより正確に行うために、呉には絨毯爆撃をしたが、広島には空襲をしなかったそうである。だから、一機だけ来たB-29に対し、物珍しげに見る市民はいても、防空壕へ逃げ込む市民はいなかったのだ。人の悪意とは、ここまでするのかと思うと同時に、核がジェノサイド(皆殺し)兵器であることを改めて思い知らされた。
■その2 元安川川縁のVR
次も川縁だ。原爆で有名なのは、投下直後の悲惨さ。原爆ドームがそうだし、皮膚が垂れ下がっ医た市民、その象徴的だ。その後、「黒い雨」が降る。井伏鱒二の小説でも有名だが、放射能廃棄物と、いろいろな燃え滓が一緒になり雨が降るのだ。火傷を負い、喉がからからな広島市民は、これを慈雨とし、飲んだと言う。当然、被爆をより強くする。
二回目のVRは、爆発から黒い雨が降るまでに起こったこと。私も知らなかったが、いくつもの竜巻が起ったらしい。「この世界の片隅に」で、すずは呉で原爆により広島から飛んできた障子に出会う。心優しい彼女は、「つらかったろ」と声をかけるのいだが、広島では舞いあげられたトタン板が降ってきたそうだ。爆風のためか、この竜巻が関係しているのかは知らないが、悪夢である。大火傷を負った被爆者の上に、それなりの重さのあるトタン板が降るのだ。大きいので逃げ場がない。地獄の閻魔様でも、こんな仕打ちは考えないだろう・・・。
以降、相生橋、原爆ドームを含み、復興の話しになって行く。
小学校から高校まで広島にいた者から言わせてもらうと、広島は、中国地方一の大都市ながら覇気はなかった。確かに、広島は、いろいろな会社があり、それが皆、かなりの想像力に富む。しかし、東京に出て、名乗りを挙げられるとは思っていなかったのではないかと思う。その位、原爆で打ちのめされたのだ。時が経ったからといって、その鬱屈さは拭えない。
それをひっくり返すために創立されたのが「広島カープ」だ。市民にとってカープは親戚のようなもの。常にどこかで応援している。私は、中2の時、カープの初優勝で、広島もやればできると感じると同時に、阪急との日本シリーズ2引き分け4敗で、まだ中央は遠いとも感じた。広島者が、ストレスなくを故郷を語れるのは、日本シリーズで近鉄を破った瞬間だったと思う。
■VRツアーは体験すべき
戦争体験などしたくない。そんなの当たり前である。しかし、日本は、広島、長崎と原爆を落とされた地を持つ。その広島で育った私は何度となく、被爆施設に行かされたし、恐怖体験、当然、ある種のトラウマも負った。
しかし、いろいろな原爆施設の体験しているはずの私が、VRツアーで新たな感銘と恐怖を感じたのも事実。資料館で受けたのは単なる「恐怖」だが、VRツアーで受けたのは「この地」でという、リアル感だ。これは、博物館、美術館でも味わえない。それは展示と言う行為自体が、エッセンスを切り取っているからだ。例えば、「モナリザ」はパリのルーブル美術館にある。モナリザのモデルに関しては諸説あるが、イタリアの貴族の一室に飾られ、「これは、ダ・ビンチが書いた有名な肖像画、モナリザですが、実は・・・」と語られた方が、面白いし、印象に残るだろう。現地で体験するVRにはそんな力強さがある。
そして、このツアーは、80分、800mとスローペースで進む。感じ、考える時間があるツアーでもある。
このツアーの最後は、レストハウスの3階で終わる。思ったことを書いて壁に付けるのだ。
ありきたりだが、「平和を」と書かせてもらった。
■チェに体験してもらいたいと思ったVRツアー
チェ・ゲバラ。エルネスト・ゲバラはアルゼンチン生まれの政治家、革命家で、キューバのゲリラ指導者とし知られる。もはや伝説中の伝説の一人だ。
グローバルでなかった時代。1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの通商使節団を引き連れて日本を訪れた。いろいろな会社を視察するためだ。そんな中、7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くないことを知り、彼は予定になかった広島を訪れる。広島県職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった大原博夫と会談したという。
その時の逸話で、原爆資料館を視察中、それまで無口だったゲバラが突然、通訳担当の広島県庁職員の見口健蔵さんに英語で問いかけた。
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
見口さんは、何も答えられなかったという。
ゲバラは、広島から妻のアレイダに宛てて絵はがきを送ったそうだ。毎日新聞によると、そこには以下のように書かれていたという。
「私の愛する人。今日は広島、原爆の落とされた街から送ります。原爆慰霊碑には7万8000人の死者の名前があり、合計は18万人と推定されています。平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い。抱擁を。チェ」
広島は、その後も、静かな戦いを続ける。8月6日の式典はその一つである。「はだしのゲン」が、アニメ「バクマン」で「残さなければならないと」まで言われるが、あまりにも強い語り口。日本自体が戦争から遠ざかっており、読めない人も多いと思う。
しかし、残酷、怖いとい直接的な表現から「この世界の片隅に」のように新しい語り口、残酷という事実はそのままに、それを悲しみに昇華する試みもなされている。またVRも新しい体験だ。残酷表現は抑えてあるのに、戦争という悪意が身に沁む感じだ。表現方法は、世につれ、人につれだが、平和への静かなる闘いは、連綿と続けられている。
この静かなる戦いを、ゲバラが見たら何というだろうか、SNSで「いいね」を付けてくれるだろうか。「頑張っているな」と笑ってくれるだろうか。それとも革命家で血の気が多い彼のこと、「後は、俺に任せろ。」と言うだろうか。
いずれにせよ、小職は、戦争の愚劣さをアピールすることに賛同するし、広島が、長崎が、今行っている原爆反対へのアピール継続は必要だともう。すぐ忘れるとしても、人間の愚行を考えるのは、人としてすべき行為であり、何度もアピールすることにより、それは若い世代にもつながると思うからだ。
このVRツアー、広島に来た時、ぜひ体験して欲しい。原爆資料館と異なる、ヒロシマ体験をい得ることができる。ピースパークツアーVRでググれば、すぐ予約可能だ。
最後に、ご案内頂いた田原さんに、改めて御礼を言いたい。
より詳しい情報は、以下のURLでご確認ください。
https://hiroshima-resthouse.jp/tour/peacetour
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2023年1月22日
タグ: VR, バーチャルリアリティ, ピースパークツアーVR, 原爆ドーム, 原爆資料館, 平和記念公園, 広島, 生活家電.com